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ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』[1970=1979]紀伊国屋書店

 

T モノの形式的儀礼

 

・【モノの意味の変化】「……他のモノとまったく無関係に、それだけで提供されるモノは今日ではほとんどない。このために、モノに対する消費者の関係が変化してしまった。消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットと関わることになる。洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機などは、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている。ショーウィンドウ、広告、企業、そしてとりわけここで主役を演じる商標は、鎖のように切り離し難い全体としてのモノの一貫した集合的な姿を押しつけてくる。それらはもはや単なるひとつながりのモノではなくて、消費者をもっと多様な一連の動機へと誘う、より複雑な超モノとして互いに互いを意味づけあっているが、この限りにおいてはモノはひとつながりの意味するものなのである。」(14)

 

◆成熟した消費社会

・「いまや『消費』が全生活を捉え、あらゆる活動の組み合わせ様式に従って連鎖し、欲望の充足に達するための通路が一時間ごとに前もって引かれて、『環境』が全面的にエアー・コンディショニングされ整備され教養化されるに至った。消費の現象学において、生活と財、モノとサーヴィス、社会的行動と社会関係のこのエアー・コンディショニングは、純粋で単純な豊かさの段階から、モノの明瞭な組織網をへて、行動と時間の全面的条件づけ、ドラッグストアやパルリー2や現代的な空港などの未来都市的で体系的な雰囲気の組織化へと発展し、“成熟した”段階に至っている。」(17)

・「われわれは日常生活の全面的な組織化、均質化としての消費の中心にいる。そこでは、幸福が緊張の解消だと抽象的に定義されて、すべてが安易にそして半ば無自覚的に消費される。」(19)

・「……現代のパンテオンである膨大な『ダイジェスト』としてのショッピングセンター、われわれのパンデモニウム(万魔殿)には、消費のあらゆる神々、いや悪魔たちが、つまり同じ抽象作用によって廃絶されたあらゆる労働、争い、季節が集まってくる。このようにして統合された生活の実体、この普遍的ダイジェストの意味を問うことはもはや不可能になった。夢の作業、詩的作業、意味の作業であったもの、すなわち区別された諸要素を生き生きと結びつけることの上に成り立つ、移動と凝縮の大いなる図式、隠喩と矛盾の偉大な形態はもう存在しない。均質な諸要素の永遠の交代があるばかりだ。象徴的な機能はすでに失われ、常春の気候のなかで『雰囲気』の永遠の組み合わせが繰り返されるのである。」(20)

 

・【消費の心性】「ここで問題となるのは私的および集団的消費の心性である。……この心性は消費を支配する魔術的思考であり、日常生活を支配し奇跡を待望する心性であり、それは考え出されたものの絶対的力への信仰(ただし、われわれの考えによれば記号の絶対的力への信仰だが)の上に成り立つという意味での原始人の心性である。実際、豊富とか潤沢とかは、幸福の記号が積み重なったものにすぎない。」

 

・【労働過程の不可視化】「日常生活の経験では、消費の恩恵は労働や生産過程の結果としてではなく、奇跡として体験される。……つまりイメージの消費にたどりつく生産の長い社会的過程を、消費者の意識から消し去ってしまう。」

 

・【記号の両義牲】「記号の働きは、つねに両義的である。その機能は、二重の意味で祓いのけることである。つまり記号(力、現実、幸福等々)を捉えるためになにかを浮かび上がらせることであり、他方、否定し、抑圧するために何かを呼び起こすことである。」(24)

 

・【記号の安心感】「マス・コミュニケーションの描く軌跡でありその眩惑的な感傷癖の源泉でもあるこの核心とは、まさしく何も起こらない場所なのである。『核心』とは情熱と事件の寓意的な記号であって、記号はこうして安心感を与える機能をもつことになる。/このように、われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。」(26)

 

・【好奇心の関係】「メッセージの内容、つまり記号が意味するものはまったくといっていいくらいどうでもよいのだ。われわれはそれらの内容にかかわりをもたないし、メディアはわれわれに現実世界を指示しない。記号を記号として、しかしながら現実に保証されたものとして消費することを、われわれに命じるのである。消費の実践を定義しうるのは、この点においてである。現実世界、政治、歴史、文化と消費者との関係は、利害や投資=備給や責任の関係ではなく、また完全な無関心の関係でもない。それは好奇心の関係である。」(26)

 

・【弱者の幸福を目指す消費】「消費は緊張の解除である弱者の幸福を目指す…。快楽主義的なこの新しい行動スタイルにつきまとう深い罪の意識と、『欲望の戦略家たち』によって明確に規定された、受動性を免罪する緊急性とは、ここから生じている。労苦や心配のない、そしてそれを喜んでいる無数の人々に受動性からくる罪の意識を取り除いてやらなければならない。ここに、マス・メディアによる見世物的ドラマ化の操作が介入してくる。」(28)

 

・【浪費の肯定】「個人にせよ社会にせよ、ただ生き長らえるだけでなく、本当に生きていると感じられるのは、過剰や余分を消費することができるからなのである。このような消費は消耗、すなわち純粋で単純な破壊にまで達することがあるが、その場合にはまた別の特殊な社会的機能をもつ。例えば、ポトラッチにおいては、貴重な財を競って破壊しあうことが社会的組織を固めるのである。」(39)

 

・【消費の中心問題】「消費によって提起された根本問題の一つは、生物が有機体を形成するのは自分が生き残るためだろうか、それとも自己の生命に与える個体的あるいは集団的意味のためだろうか、という問題である。……この問題は……消費の中心にある問題であり、こう言い換えることもできる。豊かさとは結局のところ浪費のなかでのみ意味をもつのだろうか、と。」(40)

→権力への意志(ニーチェ):より多く、より早く、よりしばしば、力を使い果たしたいという野望。(41)

 

◆豊かさ=浪費

・「豊かさが一つの価値となるためには、十分な豊かさではなくてあり余る豊かさが存在しなければならず、必要と余分との間の重要な差異が維持されなければならない。これがあらゆるレベルでの浪費の機能である。浪費を解消したり取り除いたりできると思うのは幻想にすぎない。」(42)

→「これまでの時代との本質的相違は、現在のわれわれのシステムでは、この種の見世物的濫費が未開人の祭りやポトラッチのような象徴的かつ集団的な決定的意味をもはやもたないということである。この種の見せびらかし的な消耗もやはり『擬人化』されマス・メディアに乗せられて、大量消費を経済的に活気づける働きをもっている。……とくに文化面においては、マス・メディアによってもてはやされているこの贅沢で最高の無駄遣いは、……根本的で体系的な浪費を倍加させずにはおかない。それは物的財と同時に生産によって生み出され、物的財と一体となった機能的で事務的な浪費であり、それゆえ消費対象の特性とあり方(脆弱性、計算された壊れやすさ、寿命の短さ)の一つとして強制的に消費される浪費である。今日、生産されるモノはその使用価値や達成可能な持続性のために生産されるのではなくて、反対に価格のインフレ的上昇と同じ程度のスピードで早められるモノの死滅のために生産される。……ただ一つの目的のために、かなりの額の浪費が宣伝によって実現されるが、この目的とは、モノの使用価値を増加するのではなくて奪い取ること、つまり、モノを流行としての価値や急テンポの更新に従わせることによって、モノの価値=時間を奪い取ることである。……もっとも高いレベルの『消費』は、個人の場合のモノへの病的な渇望と同じ理由で消費社会の一部をなしている。両者が一体となって生産秩序の再生産を保証しているのである。」(44-45)

・「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確に言えば、モノの破壊が必要である。モノの『使用』はその緩慢な消耗を招くだけであるが、急激な消耗において創造される価値ははるかに大きなものとなる。それゆえ破壊は根本的に生産の対極であって、消費は両者の中間項でしかない。消費は自らを乗り越えて破壊に変容しようとする強い傾向をもっている。そして、この点においてこそ、消費は意味あるものとなるのである。」→破壊は脱工業化社会の支配的機能の一つである。(46)

 

 

U 消費の理論

 

◆福祉の平等主義的イデオロギー

・「幸福という概念のもつイデオロギー的力は、……社会歴史的にみれば、現代社会では幸福の神話は平等の神話を集大成し具体化したものであるという事実に由来している。……幸福が何よりもまず平等という意味とイデオロギー的機能をもつという事実は、その内容についてのいくつかの重要な結果をもたらすことになった。平等主義の神話の担い手となるには、幸福は計算可能なものでなければならない。幸福は、モノと記号によって計量することのできる福利、物質的安楽でなければならない。」(49)

・「平等の神話では、『欲求』の概念が福祉の概念と結合している。『欲求』は安心感を与える目的に満ちた世界を描き出し、その自然主義的人間学は普遍主義的平等を約束するが、そこには次のような説が暗示されている。すべての人間は欲求と充足の前で平等である。なぜなら、すべての人間はモノと財の使用価値の前で平等だからというわけである。(ただし交換価値の前では不平等であり反目しているが。)欲求は使用価値に応じて定められるのだから、ここにあるのは、その前では社会的・歴史的不平等がもはや存在しないような客観的効用または自然的合目的性の関係である。」(50)

 

◆二つの立場

@ガルブレイスに代表される多くの人々の立場:いっさいの否定的現象(システムの機能障害、公害、貧困)を、嘆かわしく思うが、しかし長期的には修正できると考え、経済成長の魅力的な軌道を守り抜こうとする態度。

Aボードリヤールの立場:「システムは不均衡と構造的欠乏によって生存し、その論理は偶然にでなく構造的に両義的であることを認め、システムは富と貧困を同時に生み出し、充足と同様不満を、進歩と同様公害をも生み出すことなしには存続できないと考える立場。システムの唯一の論理は生き残ることであり、この意味でのシステムの戦略は、人類の社会を不安定な状態、絶えざる欠損の状態に保つこと」(58-59)

 

◆消費の意味変化

・「……消費が現在果たしている優越的役割を失って、それを他の基準や他の型の行動に譲ることも起こりうる。極端に言えば、消費が万人のものとなったときには、それはもはや何の意味ももたなくなるかもしれない。」(62)

→@労働と責任のタイプ、教育・教養水準、決定への参加(権力)

 A都市の中心部・周辺部、住環境:「肉体労働者と上級管理職の支出の差異は、生活必需品では100135にすぎないが、住居設備では100245、交通費では100305、レジャーでは100390となっている。」(63)

 

・【進歩の意味】「『きれいな空気への権利』の意味するものは、自然の財産としてのきれいな空気の消滅とその商品の地位への移行、およびその不平等な社会的再分配という事実である。したがって資本主義システムの進歩にすぎないものを、客観的な社会の進歩と取り違えてはならない。資本主義的システムの進歩とは、あらゆる具体的自然的価値が徐々に生産形態、つまり(1)経済的利潤、(2)社会的特権への源泉へと変質することなのである。」(63-64)

 

・【消費のイデオロギー】「……もっと深いところでは次のような根本的差別が存在している。つまり特定の人々だけが、環境に内在する諸要素(機能的生活、美的素質、高い教養)の自立的で合理的な論理に接近できるという意味の差別だ。これらの人々はモノとは関係がなく、正確に言って『消費』しない。他の人々は魔術的経済を受け入れざるをえない、つまりモノ自体に価値を与え、他のすべてのもの(思想、余暇、知識、文化)にモノとしての価値を与えざるをえない。実はこの物神崇拝的論理こそが消費のイデオロギーにほかならないのである。」(65)

 

・【消費過程の二側面】(67-)

@消費活動がそのなかに組み込まれ、その中で意味を与えられることになるようなコードに基づいた意味づけとコミュニケーションの過程。

A分類と社会的差異化の過程としての側面。この場合、記号としてのモノはコードにおける意味上の差異としてだけでなく、ヒエラルキーのなかの地位上の価値として秩序づけられる。

 →Aa:「生活的側面」:意識的で論理的。

  Ab:【構造的な側面】:無意識的。個人を超えたところに解読の規則や意味上の制約がある。「消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは、同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそもの初めから社会全体のなせるわざであって、いやおうなく個人を超えてしまうのである。各個人は差異の秩序のなかでポイントを稼ぎ、秩序そのものを再生産し、したがってこの秩序のなかでは常に相対的にしか記録されない定めになっている。」→相対性の強制。(68)

 

◆差異

・【差異の消費】「消費の加速度的増加」という現象は、「欲求の充足に関する個人的論理を根本的に放棄して差異化の社会的論理に決定的重要性を与えないかぎり、説明できるものではない。この差異化の論理と威信の単なる意識的規定とを区別しなければならない。なぜなら、これらの規定は依然として欲求の充足であり、プラスの差異の消費だが、差異表示記号の方は、つねにプラスであると同時にマイナスでもある。したがって、これらの記号は他の記号を限りなく指示し、消費者の欲求を決して満たすことがない。」(69)

・【差異化の増大】「小集団の内部では、欲求や競争が安定することがあろう。地位を意味するものと差異を表示する用具のエスカレーションが、そこでは弱いからだ。こうした現象は伝統的な社会や小集団にみられる。われわれの社会のように産業の集中と都市への人口集中現象がいちじるしく、人口密度が高く、人々がひしめきあって生活している社会では、差異化への要求は物的生産力よりも急速に増大する。……/流行の完全な独裁に裏づけられたこのエスカレーション、この差異的連鎖反応の描く軌跡が都市である。」(74)

 

◆差別

・【差別の法則】「モノや財と同様、欲求の順序は何よりもまず社会的選択に従う。欲求とその充足とは、記号による距離と差異化の維持という絶対的法則、一種の社会的至上命令によって、下の方へ浸透していく。」→差別をもたらす用具の「上から下への」更新法則。(70)

・【下層階級の「超」消費願望】「職業上のあるいは文化面での渇望よりはるかに柔軟性をもつ(物質的または文化的な)純粋の消費願望は、ある種の階級にとっては上の階層にのし上がれなかったという事実を埋め合わせている。消費衝動は垂直的な社会階梯における満たされない欲求を埋め合わせることができるかもしれない。こうして(とくに下層階級の)「超消費」願望は、地位を求める欲求の表現であると同時に、この欲求の失敗を体験的に示すことになるだろう。」(72)

 

◆ボードリヤールの立場

・【成長社会への批判】「成長社会は豊かな社会の正反対である……。競争心をかき立てる欲求と生産とのあいだの恒常的なこの緊張、すなわち貧乏性的緊張である『心理的窮乏化』のおかげで、生産の秩序は自分に十分引き受けられる欲求だけを生じさせ、満足させるよう振る舞うのである。経済成長の秩序においては、この論理に従えば自立的な欲求は存在しないし、また存在できない。存在するのは成長の欲求だけである。」→システムによる過剰欲求の生産。

・【豊かな社会】「あらゆる物質的(および文化的)欲求が容易に満たされる社会という、われわれが豊かな社会について抱いてきた固定観念は放棄されなければならない。……マーシャル・サーリンズが『最初の豊かな社会』についての論文で取り上げた見解に従わなければならない。それによれば、いくつかの未開社会の例とは反対に、われわれの生産至上主義的産業社会は希少性に支配されており、市場経済の特徴である希少性という憑依観念につきまとわれている。われわれは生産すればするほど、豊富なモノの真っただ中でさえ、豊かさと呼ばれるであろう最終段階(人間の生産と人間の合目的性との均衡状態として規定される)から確実に遠ざかってゆく。というのは、成長社会において、生産性の増大とともにますます満たされる欲求は生産の領域に属する欲求であって、人間の欲求ではないからである。そして、システム全体が人間的欲求を無視することの上に成り立っているのだから、豊かさが限りなく後退しつつあることは明白である。それどころではない。現代社会の豊かさは、希少性の組織的支配(構造的貧困)が優先するために、徹底的に否定される。」(77)

・「未開社会の特徴である集団全体としての『将来への気づかいの欠如』と『浪費性』は、真の豊かさのしるしである。われわれには豊かさの記号しかない。……だがサーリンズもいうように、貧困とは財の量が少ないことではないし、目的と手段の単純な関係でもなく、なによりもまず人間と人間との関係なのである。未開人の信頼を成り立たせ、飢餓状態におかれても豊かに暮らすことを可能にしているものは、結局、社会関係の透明さと相互扶助である。……贈与と象徴交換の経済においては、ほんのわずかの、つねに有限の財だけで普遍的富を生み出すのに十分なのだ。なぜなら、それらの財はある人々から他の人々へと絶えず移動するからである。富は財のなかに生じるのではなくて、人々のあいだの具体的交換のなかに生じる。したがって、富は無限に存在することになる。限られた数の個人のあいだでも、交換の度ごとに価値が負荷されるので、交換のサイクルには限りがないのだから。この富の具体的で関係的な弁証法が、文明化され、かつ産業化されたわれわれの社会を特徴づける競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法として逆転されてしまっているのである。」(78-79)

 

◆欲求

・【欲求のシステム】

@自然な欲求/人工的な欲求という二分法の無効性

Aガルブレイスは、欲求はあれこれのモノに対する欲求でしかないと考える。つまり、経験的欲求は経験的モノの単なる鏡的反映でしかないと考えて、モノの生産がそれに対応する欲求を生み出すと考える。しかし「真なる命題は、『欲求は生産の産物である』ではなくて、『欲求のシステムは生産のシステムの産物である』なのである。この二つの表現はまったく別のものである。欲求のシステムとは、欲求がモノに応じて個別に生まれるのではなく、消費力として、生産力のより一般的な枠内での全面的処分力として生産される現象のことであって、テクノストラクチュアはこの意味において自己の支配力を拡大するということができる。」(90)→賃労働と資本の成立によって、欲求はシステムの要素として生み出されるようになる。

・【欲求の体系】「洗濯機は、道具として用いられるとともに、幸福や威信などの要素としての役割を演じている。後者こそは消費の固有な領域である。ここでは、他のあらゆる種類のモノが、意味表示的要素としての洗濯機に取って代わることができる。象徴の論理と同様に記号の論理においても、モノはもはやはっきり規定された機能や欲求にまったく結びついていない。というのはまさしく、モノは社会的論理にせよ欲望の論理にせよ、まったく別のものに対応しているのであって、それらに対しては、モノは意味作用の無意識的で不安定な領域として役立っているからである。」(93)

→ヒステリー症に似ている。症状が現れている器官だけを治療しても、症状は他の場所に移るだけである。

・「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求(社会的な意味への欲望)である」(95)。→個々の欲求は「モノに対する欲求」であるが、これに対して欲求一般(欲望)は、意味を欲しつつ、差異と欠如を生み出すということ。

 

◆消費の特徴

・「消費行動は、……差異表示記号を通じた価値の社会的コードの生産といった目的に対応している」。「消費は享受の機能ではなくて生産の機能であって、それゆえモノの生産とまったく同じように個人的ではなくて直接的かつ全面的に集団的な機能だと考えるのが消費についての正しい見解である。」「消費は記号の配列と集団の統合を保証するシステムであり、モラル(イデオロギー的価値システム)であると同時にコミュニケーションのシステムすなわち交換の構造でもある。」→「消費の社会的機能と組織構造が個人のレベルをはるかに越えた無意識的な社会的強制として個人に押しつけられる」ということ。「消費は享受を排除するものとして定義される。……享受とは自立的で合目的的な自己目的としての消費を定義するはずのものであろう。」(96-97)

・【消費の強制】「消費は次の二種の強制によって支配されている。@構造分析レベルでの意味作用にともなう強制。A戦略的(社会的・経済的・政治的)分析における生産と生産循環に伴う強制。」(103)

・【消費による個人主義化】「消費対象や消費財の管理された所有は、個人主義的傾向をもち、没連帯的で没歴史的傾向をもつ。……消費者たるかぎりでは、ひとは再び孤立し、バラバラに細分化し、せいぜいお互いに無関心な群衆となるだけである。……消費はまず個人的対話として演じられ、個人的満足や失望とともにこのような最小限の交換のなかに姿を消してしまう。消費の対象はひとを孤立化させる。」(108)「民衆とは未組織におかれたかぎりでの労働者のことであり、公衆や世論とは消費だけに甘んじているかぎりでの消費者のことである。」(109)

・【消費による個性化の要求】:消費社会の成熟は、画一的な商品から、各人の個性にあわせた製品を生み出せるようになる。→しかし実際には、いくつかのパタンの中から、気に入ったものを選ぶだけであり、それは自己に固有の「個性」ではなく、一定のコードへの服従であり、生産による支配である。(110-13)

・「消費というものは、まずはじめに個人的欲求をもった個人を中心に秩序づけられ、ついでこの欲求が権威ないし順応の要請に応じて集団の文脈の上に指数化される、といったものではないことを知るべきだ。実際には、まず最初に差異化の構造的論理が存在し、この論理が個人を『個性化された』ものとして、つまり互いに異なるものとして生産する。だがこのことは、自分を個性的なものとする行為においてさえも個々人が自分を順応させる一般的モデルと一つのコードに従って行われる。個人という項目についての独自性/順応主義の図式は本質的なものではなく、体験レベルの問題なのである。コードに支配された差異化/個性化の図式の論理、これこそ根本的な論理である。」(119-20)

・【消費の定義】@消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではない。A消費はもはや個人や集団の単なる権威づけの機能ではない。B消費はコミュニケーションと交換のシステムとして、絶えず発せられ受け取られ再生される記号のコードとして、つまり言語活動として定義される。

→競争といっても、流行のコードによって濾過された遊び的な抽象的競争である。(121)

→消費社会の装置:諸個人を差異のシステムと記号のコードに組み込むこと。

・【消費社会の協同的社会統合】「社会の有毒性を消費が緩和するのは、個人を快適な生活や欲求の充足や名声の中にどっぷりとつけることによってではなく、……むしろ一つのコードを、そしてこのコードのレベルでの競争的協同を無意識的に受け入れるよう諸個人を訓練することによってである。人々の生活をもっと楽にすることによってではなく、反対に人々をゲームの規則に参加させることによって、といってもよい。こうして消費は、……長い目で見れば社会全体の統合を引き受けることができる。」(123)

この社会統合をどう評価するか。

 

◆消費哲学用語解説

・【ガジェット(gadget)】アイデア商品。生活に直接関係のない無駄な発明品。電気製品、カメラなど。

・【パノプリ(panoplie)】古くは騎士の武具一式を指す言葉。現代では、玩具の変装用セットから、一国の軍備まで指し示す。

・【アンヴェスティマン(investiment)】「ある量の心的エネルギーが、ある表象、表象群、あるいは身体の一部、ある対象などに結び付けられること。」フランス語の場合には経済学概念の「投資」と重なり合う。「投資=備給」。­­

・【ルシクラージュ(recyclage)】学校用語で「進学コースや専攻の変更」のことだが、広い意味では、社会人が時代の変化に遅れないように、職業上の新しい知識や方法を学びなおすこと。再学習。転職や配置転換ではない。